今このひとに会いたい…P2
第42回すばる文学賞受賞 須賀 ケイさん
文壇デビューを果たすという快挙
爽やかな好青年―なんて、手垢のついた言葉で表現するのはどうかと思うけれど、待ち合わせ時間のほんの少し前に現れた小説家の須賀ケイさんは、すらりとした長身の「爽やかな好青年」でした。
すばる文学賞とは、集英社が主催する純文学の新人賞です。群像新人文学賞(講談社)、新潮新人賞(新潮社)とならび、小説家を志す人なら誰もが目標とする登竜門のひとつで、受賞作は月刊文芸誌『すばる』に掲載された後、単行本としても出版されます。つまり、受賞はイコール文壇デビューということを意味します。最近は小説の世界にもWeb投稿からのデビューという手法もなくはないようですが、それでも、純文学の世界ではまだまだ出版社の文学賞受賞こそが王道であり、裏道も抜け道もない世界です。つまり、小説家デビューを果たせるのは、毎年ほんの数人だけということ。須賀さんは、その選ばれし者ということになります。
文壇デビューを果たして、周囲の反応は? の問いには、「全然、変わらないです。バレないもんですよ」と笑います。「別に隠しているつもりはないけれど、自分から話題にはしません」と。
「書く」ことが業である様々な分野の中でも、芸術性に重きをおく純文学は別格。逆に言えば、別格ゆえに、人の暮らしとは離れた場所にまつりあげられてしまい、読者も限定的になりがちなのでしょう。せっかく地元出身者の快挙なのに「もったいないなぁ」と思っていると、「もっと売れてからバレた方が、面白いと思っていますよ」と、またニコリ。なるほど、目指すは芥川賞ですね。
厳しい世界であることは重々承知。そして、その厳しい世界のど真ん中に立つことができた誇りと自信に溢れているように見えました。
受賞作『わるもん』の魅力は「わかりづらさ」
私が調べた限り、受賞作『わるもん』の読後感想に散見されるのは、「わからない」という言葉。そして、「だからつまらない」もあるけれど、「だから引き込まれる」というのが大多数でした。ストーリーは、ある家族の物語。邪険にされ、家からその存在がなくなったお父さん。お母さんはちょっと小うるさく、二人の姉妹はそっけない。そんな家庭が「純子」の目線で描かれています。
「この作品は、『純子』という子が何歳で、どこに住んでいてとか、説明描写を一切省きましたし、場面や時間もぶつ切りにしています。『純子』の目を通して見る世界を思うままに描いてみたんです。結果的に、選者の先生方から、手探りで物語を読みすすめていくところが、作品の魅力だと評価をいただきました」と須賀さん。ちなみに、彼の作品を絶賛した選考委員は、江國香織、奥泉光、角田光代、高橋源一郎、堀江敏幸と、今を輝く超一流の小説家ばかりです。
もちろん、私も読みました。たしかに「わからない」。主人公はこの「純子ちゃん」なんだろうけど、いったいナニモノ? 縁側でレーズンを食べていたかと思うと、家の近くの路上で中学生にからまれている…、なぜ⁈ 人物像のあやふやさと、前触れもなくいきなり場面が転換していくジェットコースター感に面喰い、最初はページを前や後ろに繰ってばかりいました。途中で「なぜ?」と思うことを諦め、ジェットコースターに身を委ねてみると、スルスルと読み進み、気が付けば一気に読み終わっていました。疑問符は相変わらずたくさんついていましたが、おさまるように収まった家族の姿にホッとして、「純子ちゃん、良かったね」と言葉を掛けている私がいました。
それにしても、「子ども」であろうはずもない目の前の青年が、「純子」をこんなにもイキイキと描ききっていることに驚くばかりです。思わず、「子どもさんがいらっしゃるんですか?」と訊ねてしまいました。「いえ、まだ独身です」とちょっと照れたように笑い、言葉を続けました。
「よく純子にモデルはいるんですか? って訊かれるんですが、特に『この人』というモデルはいないんですよ。ですが、『小説を書く』という意思を持って、常に人間観察をしています。人が見過ごすようなポイントで立ち止まって、人が捨てたものを拾って、それに光を当てる…。そんな作業なんですが、その中で、純子は生まれてきました」
須賀さんの観察眼から生まれた純子は、先に書いたように天真爛漫な女の子のように描かれながら、作品の中盤で、実は…という種明かしがあります。はっきりと書かれているわけではないのですが、子どもと同じような心性を持っているハンディキャップのある女性なのかなぁと、なんとなく覚ります。
「結果的に読者を混乱させてしまいましたが、混乱させようと狙ったわけではないんです。子どもの視点で見えているものや、マイノリティといわれる人が見ているものは、大多数の人間が見ている世界とは違うかもしれない。けれど、その人にとってはそれが真実。自分が見ている世界だけが真実じゃないってことを、伝えたくて描きました」
なるほど。そういうことだったのか。自分とは違う目線を体感するためには、目かしく状態でジェットコースターに乗る、それが必要だったのかもしれません。
小説家であることの覚悟
実は、須賀さんは、受賞の前年度の第41回すばる文学賞でも、最終選考に残っています。あと一歩で受賞を逃すという体験があったことを、「もちろん、すごく悔しかったんですが」と前置きしつつ、「受賞しようがしまいが『書き続ける』という行為は同じなんだと、今は思います」と。昨年度に受賞された作家さんも、小説家としてデビューし書き続けていなければいけない。落選した自分も、また次を狙って書いていた。「書き続ける」という行為は同じだと。もちろん、受賞し、デビューを果たした今も「書き続ける」日々。
「受賞後も何も変わらない」という、さきほど伺った言葉にも、そんな思いがあったのかもしれません。
赤い靴を履いて踊り続けるアンデルセンの童話が、ふと思い浮かびます。たいへんなことのようにも思え、重ねて訊いてみました。須賀さんにとって「書き続ける」こととは?
「書くことは、生きて、感じたことの発散であり、自己表現です」。
息を止めては生きていけないように、小説家たる須賀さんは、書くという行為をしないほうが苦しい、そんなものなのかもしれません。
大学2回生の頃に小説家を志してから、スマホのメモ機能を使って書き溜めたアイデアは、「まだまだ底をつくことはないです」とキッパリ。さらに、「小説を書くという事実が根底にある限り、親になったり、歳を重ねていくなかで、書きたいと思えるテーマや人はこれからも増えていくだろうと思います」と。
須賀ケイの描く世界にハマル
『わるもん』を読み終えた余韻の中で、もっと須賀ケイ作品を読んでみたいと無性に思い、ネットで検索。新作を見つけて注文しました。受賞後第一作となる『鳥公爵と梔子の午後』―『すばる』5月号に掲載された中編小説です。
言語学の准教授が主人公。事情があって育てている小学生の甥っ子とバードウオッチングを通じで知り合った、言葉を発しない女性との交流を描いた作品です。
言葉を介さない感情の交流が描かれているのですが、なぜか色々な音が行間から聞こえてきます。小鳥のさえずり、雪の道を踏みしめるキュキュという音、大学の大教室のざわめき…。心地良い音です。厳選されたんだろうなと思わせてくれる言葉の美しさや表現の巧みさにも魅せられました。
一気に読み進めていると、突然「了」の文字。「エ~、終わっちゃったの!」と思わず叫んでいました。この先の展開が気になる。まだまだ続きが読みたい。そんな物語でした。
久しぶりに読んだ小説。いい時間でした。近い将来、大ベストセラー作家となって世間を賑わす、この予感は当たるような気がしています。(松野敬子)