中国から日本へ、歴史に翻弄された幼少期。
大澤さんが生まれてから6歳(1949年)まで過ごしたのは、中華民国の山西省太原(たいげん)という街です。当時中国には多くの日本居留民がいました。お父様は電気通信局長で、自宅敷地は何千坪もあり、周りを高い塀に囲まれた大邸宅に住んでいました。日本の統治と中国の内戦、米ソ冷戦構造、混沌とした政治状況の下、幼い頃の大澤さんは家から出ることは禁止されていました。家に来るのは大人だけ。子どもに会うもことなく、子どもらしい遊びにも無縁で、帰国後学校では苦労しました。
そんな毎日の中、興味があったのは料理です。一家の専属料理人、マー(馬)さんに付いてまわり、一通りの中華料理のレシピを覚え込みました。
「最初は火を使わない前菜料理からです。前菜はマーさんではなく、前菜担当の料理人に教えてもらいました。そして、徐々に火を使う複雑な料理を覚えたのです。5~6歳の頃ですから字は書けません、すべては頭の中に入っているんです」と大澤さん。当時の住所、屋敷に出入りしていた大人の顔、日々の出来事など、今でも克明に覚えている大澤さんの記憶力は尋常ではありません。
「三刀(さんとう)」の教えもこの頃覚えた教訓です。中国の歴史的経験則の一つで、どんな国、いつの時代でも、刃物を使用する「料理人、理髪師、仕立屋の三つの職業は身を助ける」という教えです。大澤さんは、この三つの職業を人生の目標にしました。敗戦後日本へ引き上げる時、お父様は一緒に帰れず、母子三人の帰国となりました。日本人の輸送には、乗船時に厳しい検閲があり、お母様が持っていた財産は、すべて没収されました。そんな出来事を目の当たりにしたことも、三刀で生きる決意となったのかもしれません。