今このひとに会いたい…P2

元ドイツプロサッカー選手 増田雄二さん

単身ドイツへ渡る

 プロのサッカー選手になろうと、単身ドイツに渡ったのは20歳の冬。3年制のサッカー専門学校を2年で中退することを両親に告げると、直ぐにアパートを引き払い、その足で成田空港へ。アムステルダムを経由して雪のドイツ・デュッセルドルフ空港に降り立ちました。持って行ったのは、当面の生活費とサッカーの道具、そして、ドイツ語の辞書だけでした。プロに入団できる伝手があるわけでもなく、ドイツ語も話せない…、それどころか、ドイツの通貨がユーロだってことや国際電話のかけ方すら分からなかったといいます。あまりにも無謀なチャレンジですが、その時は、もう希望と期待で、ドキドキと胸が高鳴るばかりだったといいます。「よくぞ!」と驚くばかりですが、この無謀なチャレンジに彼を駆り立てたものはなんだったんでしょうか?

 「自分よりもたくさん練習をしている選手を知らない。だから、そんな自分がプロになれないなら、世の中がおかしい、って本気で思っていたんですよ」と、ちょっと照れたように笑いました。

 小学生の頃は、ごく普通のサッカー好きの少年でしたが、中学生の時には、すでにプロを意識し始め、高校はサッカーの技術を見込まれスポーツ推薦で入学しました。がむしゃらに練習をした3年間の日々があり、進学先として選んだのは、新潟にあるサッカーの専門学校でした。「正直、高校では目覚ましい活躍をしていたわけではなかったんですが、『誰よりも練習をした』という自信があったから、別の場所で試してみたかったんです」と。たしかに、評価というのは、それを決める相手があること。今、何かと話題のアメフトの大学チームじゃないけれど、学生選手は、監督やコーチといった大人たちの理不尽な評価を甘んじて受けざるを得ないこともあるかしれません。増田さんが、そんな評価にめげることなく、自分を信じることのできたのは、自分自身に課してきた「誰にも負けない練習量」があったからなのでしょう。そして、その延長線上にあったのが、サッカーの本場、子どもの頃からの憧れの国・ドイツで腕を試してみることだったのです。

プロの選手になる!崖っぷちの勝負に勝った日

さて、ドイツに着いてからも、青春ドラマ以上にドラマチックなドキドキ、ハラハラのストーリーは続きます。

 まずは、拾った段ボールに「練習参加希望。良かったら契約して」とドイツ語で書きました。それを首から下げて街を歩きます。ドイツは、サッカー練習場がけっこう街中にあるもので、見つけては勝手に入り込み、練習に参加しました。相手にしてもらえなくても「勝手に」です。

 「気おくれ」などという言葉は、とっくに日本に置いてきたのでしょう。相手にしてもらえなくても全く気に留めず、それよりも、ドイツの選手たちの真剣な練習ぶりにワクワクが止まらず、これこそ自分が求めてきた厳しい練習環境だ!と思っていたと。

 そして、この無謀とも思えるこの行動が、チャンスを運んできます。契約してもいいというチームが現れたのです。VfB 03 Hilden―デュッセルドルフの南東に位置するヒルデンという町のチーム。1903年に設立された、伝統あるチームでした。

 全開だったアドレナリンが底をついたのか、チームが決まり、ビザも取得した、ここからの1カ月が「一番しんどかった」と。チームの中に居場所がお膳立てされるわけはけっしてなく、チームメイトとは常にライバル関係にある厳しい世界です。日本から突然やってきたライバルをそんなに簡単に受け入れてくれません。誰も口をきいてくれず、あからさまないじめにもあい、初めて「帰国」の文字が頭をよぎったといいます。

 しかし、ここで増田さんは、勝負に出ました。リーグ開幕を前にし、シーズンのレギュラーメンバーを固めるための紅白戦のことでした。

 「今日、チームメイトから認めてもらえなかったら帰国しよう。その代わり、後悔しないように何でもしよう」と。

 与えられた出場時間はわずか20分。案の定、パスを回してくれるわけもなく、「存在を認めない」と言わんばかり。しかし、もう心は決まっていましたから、味方から思いっきりボールを奪いました。そして、そこからはひたすら単独突破を試みます。奪われたら、また奪いにいきます。敵も味方も関係なく、ただただボールを奪ってゴールを目指すことだけを考えました。そして、ゴール! 1点目を決めた時、初めてチームメイトが声を掛けてきました。「お前の名前は?」。チームの中に存在を認めさせた瞬間です。最終的に、20分間で決めたゴールは4回。プロサッカー選手・Yuji Masudaの誕生です。

 

ドイツのプロ生活で学んだこと

 ドイツで学んだサッカーは、監督を指揮官とし、監督の決めた戦い方のルールに従うということが前提でありながら、それをしてもまだ滲み出てくる「個性」の重要性でした。「個性がない者は生き残れない世界です」と。

 増田さんは、自身の高校時代を振り返り、「もっとこうした方がいい!」「なぜそうなるの?」と、納得がいかないことは小さな疑問でも口に出してしまう「ちょっとややこしい子」だったと笑います。「個性的な子」には、風当たりが強いのが日本では世の常。増田さんの波乱万丈な青春時代を振り返れば、さもありなん。

 一方、ドイツでは、「個性」はプロの選手にとって、重要なファクターでした。例えば、高い評価を得る選手というのは、サッカーの技術的には上手くはないけれどやたら足の速い選手や、接触されてもすぐに倒れないような強靭な身体作りをしている選手、というように、どこかに秀でた「個性」を持つ選手でした。そして、そんな個性は、戦略の中で、発揮できる瞬間を逃さず捉え輝かすという統制されたものでもありました。そこには、ワガママとは一線を画するもので、ルールを守ってプレイしながらも、自分の個性を発揮できるのがプロだという学びです。そして、彼自身、身長170㎝というドイツの選手と比べ小柄な身体を「個性」ととらえ、それを生かすために、スピードと突破力で勝負していました。ひたすらドリブルを磨くことで、その存在感を示していったのです。

 

夢を応援する側に

 実りの多いドイツでの生活は、2年で終わりを迎えます。ドイツは、ビザの取得が比較的厳しい国ですから、やむを得ない事情がありました。帰国後も、京都のサッカーチームに所属するも、怪我のため引退し、その後は主に女子サッカーの指導をしてきました。現在は、昨年新しくできた京都の女子サッカースクール「Techne FFA(テクネフローライトフットボールアカデミー)を任されています。

 「光る個性」 − 増田さんがスクールの目標に掲げた言葉です。サッカーがただ単に上手な子に育てるだけではなく、 自分に自信を持ち、 どこにいても、誰といてもどこか輝いている女の子を育てたい、そんな思いを込めています。

 あの雪の日に、空港に降り立った時のワクワク。がむしゃらにボールを追いかけチームの中で存在感を見せつけた時のドキドキ。今、それと同じくらい強い思いで、 女の子のためのサッカースクールを作った増田さん。女子サッカーが抱える課題の大きさも承知で、チャレンジを始めようとしています。たくさんのミラクルを起こしてきた増田さんですから、近い将来、女子サッカーが大きく飛躍する何かが動き出した時、きっとその真ん中にいるに違いありません。

(松野敬子)

 

Photo by Mitsuyuki Nakajima

 

 

 

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