おとくにの職人…P14

乙訓で活躍する職人さんにインタビュー

中国から日本へ、歴史に翻弄された幼少期。

 大澤さんが生まれてから6歳(1949年)まで過ごしたのは、中華民国の山西省太原(たいげん)という街です。当時中国には多くの日本居留民がいました。お父様は電気通信局長で、自宅敷地は何千坪もあり、周りを高い塀に囲まれた大邸宅に住んでいました。日本の統治と中国の内戦、米ソ冷戦構造、混沌とした政治状況の下、幼い頃の大澤さんは家から出ることは禁止されていました。家に来るのは大人だけ。子どもに会うもことなく、子どもらしい遊びにも無縁で、帰国後学校では苦労しました。

 そんな毎日の中、興味があったのは料理です。一家の専属料理人、マー(馬)さんに付いてまわり、一通りの中華料理のレシピを覚え込みました。

「最初は火を使わない前菜料理からです。前菜はマーさんではなく、前菜担当の料理人に教えてもらいました。そして、徐々に火を使う複雑な料理を覚えたのです。5~6歳の頃ですから字は書けません、すべては頭の中に入っているんです」と大澤さん。当時の住所、屋敷に出入りしていた大人の顔、日々の出来事など、今でも克明に覚えている大澤さんの記憶力は尋常ではありません。

 「三刀(さんとう)」の教えもこの頃覚えた教訓です。中国の歴史的経験則の一つで、どんな国、いつの時代でも、刃物を使用する「料理人、理髪師、仕立屋の三つの職業は身を助ける」という教えです。大澤さんは、この三つの職業を人生の目標にしました。敗戦後日本へ引き上げる時、お父様は一緒に帰れず、母子三人の帰国となりました。日本人の輸送には、乗船時に厳しい検閲があり、お母様が持っていた財産は、すべて没収されました。そんな出来事を目の当たりにしたことも、三刀で生きる決意となったのかもしれません。

 

 

三刀の教えを実践。刃物を使用する料理人、理髪師、仕立屋の三つの職業をすべて経験。

 料理人は人生最後の職業に残していました。美容室、ブティック、ジャズ喫茶を次々と経営し、還暦をすぎていよいよ最後の夢を叶えるため、2002年「済公亭」をオープンしました。

 金色の済公亭の看板はかつて育った太原で作ってもらいました。済公という名前は、13世紀に中国にいた臨済宗の僧侶の名前です。戒律を守らず酒、肉、魚を食べた、中華圏では誰もが知っている人気の人物です。日本語の「最高=さいこう」とかけたネーミングです。

 済公亭の中華料理はあっさりとした、素材の魅力を引き出した優しい味です。「中華は油っぽい」というのは、私たちの思い込みだと気づきます。

 「料理は化学。食材、油、塩の分量、火加減、時間、どれも適切な数字によって美味しい料理ができます。野菜も肉も刃を入れたとたんに味が落ちます。ですから注文を受けてから食材を切ります」

 そんなこだわりから、前のお客さんがいれば待ち時間が長くなります。それでも夫婦二人三脚で始めたお店は、遠くから常連客がやって来る評判の店になりました。かつてのお客さんがスタッフに加わり、今では、三人でお店を切り盛りしています。

 「一代限り、弟子は取らない。厨房は一人で料理できる規模」に徹して、客席は20名くらいまで。徹底したこだわりから生まれる中華料理。その味には、太原への郷愁と、離ればなれになったお父様との思い出が込められている、と筆者は感じました。

 

 

済公亭(さいこうてい)
〒617-0826 京都府長岡京市開田1丁目21-22
TEL 075-956-3450

 

 

 

 

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